走るシーラカンス。初代三菱デボネアが登場当初のまま生きながらえた理由とは?
走るシーラカンスと称された三菱デボネアの初代
デボネアはショーファーカー
1964(昭和39)年のdriver誌7月号には、国産ニューモデルとして三菱デボネアが登場している。
1986(昭和61)年のフルモデルチェンジまで姿かたちをほとんど変えず22年間生産され、晩年は「走るシーラカンス」と言われた初代。
その若鮎のようなピチピチの姿が4ページにわたって紹介されている。
初めて姿を現したのは、前年の第10回全日本自動車ショー(東京モーターショーの前身)。
そして、64年7月の発売を前に、同年5月26日に正式発表された。
生みの親は、戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による解体から再合併したばかりの三菱重工業。
時を同じくして三菱自動車販売が設立されている。
デボネアはトヨペット クラウン、日産セドリック、プリンス グロリア、いすゞ ベレルに対抗する、5ナンバーフルサイズの高級セダンとして開発された。
ライバル勢と同じく、運転手付きで後席に座るショーファードリブンがメインユースだ。
「ステアリングはリサーキュレーティングボール式で クラッシュパッドを採用 大きな横位置の速度計は見易い」(誌面文章より)
当時、三菱車の乗用車ラインアップは、下から軽自動車のミニカ、三菱が初めて自社開発した「三菱500」の後継車コルト600、そして三菱初の4ドアセダンとなったコルト1000。つまり、トヨペット コロナやプリンス スカイライン(ともに1.5L)、日産ブルーバード(1.2L)といったミドルクラスを飛ばして、いきなり2Lのトップレンジに参入したのだ。
ボディはライバル勢と同等以上の全長・ホイールベースを備える5ナンバーフルサイズ。
その体躯をさらに大きく見せたのがデザインで、ボディの両サイドを長方形の平板で挟んだような特徴的スタイリングは、
「アメリカ車的においが非常につよく、リンカーンコンチネンタルを感じさせる程である」(文中より)。
ただし、アメリカの大型車の影響はライバル勢にしても同様で、当時はそれがクラスのトレンドだった。
チーフデザイナーは、GMのデザイナーだったハンス・S・ブレッツナーだ。デボネアは76(昭和51)年のマイナーチェンジでエンジンを2.6L直4(三菱が特許を取得したサイレントシャフト採用)に拡大し、3ナンバー車に昇格。ボディサイズは従来どおりだったが、ナンバープレートと相まってとても5ナンバーサイズに見えない堂々たる存在感は、
まさにデザインの妙と言ってよかった。ブレッツナーは前年にデビューしたコルト1000も手がけており、そのサイドからリヤにかけてのデザインにもデボネアとの共通点がみられる。
フレームにはユニットコンストラクション形式を採用。航空機の生産技術を活かして剛性アップと軽量化の両立を狙ったもので、基本的にはモノコック構造と同義だ。
モノコックと言えば、中島飛行機を前身とする富士重工(現スバル)がスバル360に日本初採用したことで知られるが、
三菱重工も戦前、“ゼロ戦”をはじめとする戦闘機など数々の航空機を生み出した歴史を持つ。
ライバルに差を付ける2L直6エンジンを搭載
エンジンは新開発のKE64型OHV。2Lの直列6気筒を特徴とし、ともに1.9L直4のクラウンやセドリックに差をつけた。
グロリア スーパー6はスカイラインGT(連載第6回、10回)にも移植された国産車初のOHCエンジン、G7型2L直6(105馬力・16.0kgm)を搭載。
これにはバルブ機構の先進性で譲ったものの、動力性能は同等以上の105馬力・16.5kgm(ともにグロス値)を発揮した。
コラムシフトの4速MTを介して、最高速はクラストップレベルの150㎞/hをマーク。
また、KE64型には地味ながら初モノのアイテムがあった。
「このエンジンで目新しいことは、国産初のナイロン製冷却ファンを備え、かつ冷却水温作動のファンクラッチを備えていることだろう」(同)
22年間ほぼそのまま…社用車としてニーズが巨大だった
そんな初代デボネアだったが、ライバル勢に伍して高級国産車市場の一角を占めることは残念ながらできず、
かといって時代やニーズの変化に即してフルモデルチェンジされるわけでもなく、22年間ひっそりと生き続けた。
筆者が記憶する現役時代は80年代に入ってからだが、代替わりとともにオーナーカーとしての魅力も高めたライバルとは対照的に、お抱え運転手がステアリングを握る社用車の印象がとにかく強かった。
生き長らえることができた最大の理由は、やはり三菱という巨大な企業グループのニーズがあったからだろう。
三菱重工の自動車部門は1970(昭和45)年6月に独立。三菱自動車工業が設立されて、今年ちょうど50年になる。